【SS】タロウと陣(ドンブラ)

タロウが陣に毎日ちゅーする話。ギャグかもしれない。


「あら、お父さんといっしょ? いいわねえ」
「ちがう、陣はお父さんじゃない」
何度聞いたやりとりだろう。「預かってる子なんです」と作り笑いでその場を離れることだけは上手くなった。
だがそれ以外はさっぱりだ。
社会的には「お父さん」と呼ばれることを甘んじて受け入れているが、自分がタロウの父親であると思ったことは一度もない。成り行き上の養育者で保護者ではあっても、親ではない。
タロウ自身もそれは理解しているから「陣」と名前で呼ぶ。嘘がつけないがゆえに親子であることはきっぱり否定する。「息子として」なにかを求めてくることもない。彼が幼子でなければ、陣など必要としないだろう。
親になった経験がない男には、自分が父親と認められたいのかさえ定かではなかった。
いったい自分は、彼にとって何者であるべきなのか。

その朝は、とくに疲れた顔をしていたにちがいない。
タロウの奇行によって小学校から連日呼び出され、そのせいで業務から外れる時間が多く職場では白い目で見られ、雑務も残業も増えていく。朝からさわやかに出勤できる日のほうが少なかった。
「陣、だいじょうぶ?」
弁当箱を持ったタロウがそう尋ねてくるくらいなのだから、かなり重症だ。気を引き締めていかなければ……。
「ちょっと、顔ちかくして」
手で身をかがめるように指示され、戸惑いながらもしゃがみ込む。弁当を渡すだけなら必要ない。
両手で弁当箱を抱えたタロウは、耳打ちするように顔を近づけてきた。聞き取ろうとこちらも顔をかたむけると、頬に柔らかい感触が当たる。
小さな唇が、ヒゲも残る中年男の顔に押し当てられたのだ。
「タ……ロウ?」
乳児から育ててきた子に、キスなどしたこともされたことがない。呆然と子供を見返すと、彼はどこか得意気に弁当箱を差し出してきた。
「アイジョウひょうげんだよ。陣がげんきになれるように」
「愛情表現?」
どこで覚えてきたのかわからないが、彼なりの気遣い、おまじないのようなものだと思うことにした。
「ありがとう、タロウのアイジョウは伝わった。今日も遅くまでがんばれるよ」
頭を撫でてやると、彼は当然だという顔で笑う。自分の正しさを確信している表情だ。
「じゃ、『元気に』行ってきます」
「いってらっしゃい!」
バス停までの道すがら、何度か頬をさすっていた。
まだ混乱して考えがまとまらない。しかしタロウが自分を励まそうとしてくれたのだと思うと悪い気はしない。照れくさくはあるが、彼の優しさは本物だ。
あの子のためにも、今まで以上にがんばらねば。

「陣」
手招きでかがませると、タロウはまたしても頬に口を押し当ててくる。
「今日もがんばってね」
「……ありがとう」
その日だけの気まぐれだと思っていたキスは、なぜか翌日以降もつづいた。キスを受けないと弁当も渡してもらえない。
タロウの「厄介な学習機能」が発動してしまったようだ。
これを矯正するすべを、陣は未だ知らない。
そもそもこのおにぎり弁当の発端も、「陣が好きなものを作ってあげる」と言われて、なんとなく調理が手軽そうなものを答えただけだ。おかずを数品作るよりは簡単ではないかという素人考えだった。だがタロウには「陣の好物はおにぎり」とインプットされた。
それまでコンビニや外食で適当に済ませてきた身に、文句はひとつもない。毎日感謝しかない。どんな具でも美味しいと褒めちぎった。実際、自分が作る食事よりは確実に美味いから。
同じ理屈で「タロウのキスが陣を元気にする」とインプットされてしまったはずだ。愛おしさはあるが、倫理的に許されるのかという不安もよぎる。
そして予想どおり、おにぎり弁当に加えて「アイジョウひょうげん」は平日朝のルーティンとなった。

キスのためにしゃがみ込んでいたのが、そのうち中腰になり、いつしか立ったままで目線が合うようになり、ついにこちらが見上げる側になった。
高校生になった彼は自分の弁当も合わせて作っているが、玄関で手渡ししてくれる習慣は変わらない。
そして「愛情表現」も。
今はタロウのほうが首をかたむけて頭を下げ、唇を押し当ててくる。
「いってらっしゃい」
「行ってきます」
笑顔で弁当を受け取るこちらも慣れたものだ。
それでも未だに葛藤はある。
彼の愛情は素直にうれしいが、これはこのまま続いていいのだろうか。
しかし「やめてほしい」と言えば彼は理由を問うてくるだろう。教養も知識も語彙も乏しい自分には、何度シミュレーションしても説得に成功する自信がない。なにより、その言葉で彼を傷つけたくない。
今も体裁として保護者ではある。だが大人として指導できることはほとんどないのだと、何千回目かの落胆とともに頬をさすった。

 *

ある日、事件は起こった。
今日は残業でかなり遅くなるから夜は一人で食べてくれ。それを伝えようとした陣は口づけしようとしたタロウのほうを向き……唇同士が正面から重なった。
「……! ごめん、今のは……」
タロウは微笑んで、「今のも悪くなかったな」と弁当を渡してくる。なんの動揺も羞恥も見られない。
「いや、あの、タロ……」
ただのアクシデントだ。決して彼の唇を奪うつもりはなかった。
言いたいことは山ほどあったが、とっさに言葉が出てこない。「バスに遅れるぞ」と言われてあわてて外へ飛び出す。
頬へのキスなら家族の情で済むと自分に言い聞かせていたが、うっかり唇にしてしまった。されてしまったというべきか。
混乱したままほとんど駆け足でバス停に向かったため、逆に一本早いバスに乗ることができた。だがそんなことはどうでもいい。ほぼずっと口を押さえていたため、親切な乗客から気分が悪いのかと席を譲られそうになったほどだった。
気を逸らそうとしても、唇に残る柔らかな感触の記憶が消えてくれない。
仕事への集中力も散漫になり、残業は予定よりかなり延びてしまう。
帰宅した時間にはタロウはもう寝ていた。
自分勝手ではあるが、今朝の話が先延ばしになったことに少しだけ安心した。

次の日もタロウは陣より早く起き、朝食と二人分の弁当を作っている。
陣のほうは寝不足も手伝って、今朝はまだ「おはよう」しか言葉を交わしていない。タロウの目を盗んでこっそり出勤したいくらいだが、不可能なのはよく知っていた。
「あの、昨日は悪かった」
「なにがだ?」
玄関ドアの前に立ってその話題が避けられないと覚悟を決めた陣は、とにかく謝ることにした。
「その、俺が、ファースト……」
「なにを言っているのかわからない」
キスという単語も数十年は口にした覚えがなく、喉に引っかかって出てこない。そんなことではダメだと、腹に力を込める。
「タロウ……初めてのキスは、いつだれとした?」
「昨日の朝、陣と」
表情も変えずこともなげに答える。予想どおりの答えだ。
「これから人に訊かれたら『まちがってぶつかった』とつけ加えるんだ。嘘じゃないからな」
タロウは怪訝な顔でこちらを見下ろした。
「世の中にはそういう下世話な質問をする連中が多い。タロウや俺が不快な思いをさせられるかもしれない。だから、もし訊かれたらそう答えてくれ」
「よくわからないが、陣のためになるなら、そうする」
彼は嘘をつかない。約束は守る。これで完全なフォローにはならないだろうが、最低限の予防線は張った。
あとは追々この習慣にどこかで区切りを……。
「それじゃあ陣」
彼は、お預けとばかりに弁当を片手にぶら下げ、もう一方の手で陣の顔を上向かせる。
抵抗する隙もなく、タロウは陣と唇を重ねた。今度は明確に自分から。
「これが二回目だ」
弁当を押しつけながら、タロウは上機嫌に言う。
「俺のアイジョウで、今日もがんばってくれ」
「……ありがとう。できるだけ早く帰るよ」
昨日とほぼ同じ気持ちで、陣は団地の階段を下りた。
いったいタロウがどういうつもりなのか、それに関しては考えても仕方ない。
ただ、端正な顔が目の前に迫った瞬間、唇が押しつけられた瞬間、今まで存在しなかった正体不明の感情が襲ってきて、頭の中が真っ白になった。
今日は金曜だが、来週の月曜もタロウは同じことをする。それだけは断言できる。火曜も水曜も毎日……とても身がもたない。
真っ赤な顔に汗を浮かばせハンカチを口に押し当てていた陣は、今日こそバスで席を譲られた。

食事も風呂も片づけも済ませて寝ようかという時間になって、陣はタロウを自分の前に座らせた。座卓をどかせて敷いた布団の上だが。
パジャマ姿のタロウは、なんの話かと真剣な顔でこちらを見ている。
「そろそろ、朝の見送りのアレはやめないか」
「アレ?」
「……愛情表現だよ」
なんとなく手を口元に持っていったのは無意識だったが、タロウもそれで気づいたらしい。
「口にされるのは嫌だったか?」
こういうときだけ、彼は不安そうに眉をひそめる。普段の傍若無人ともいえる態度でいてくれればいいものを。
「そうじゃない、俺はうれしいと思っているが、タロウももう高校生だし……」
「高校生のほうがキスはよくしているぞ。校内でも校外でもよく見かける」
話の持っていき方をまちがえた。
「その、ああいうのは、もっと大切な、好きな相手とすることじゃないか」
「俺がいちばん大切で大好きなのは、陣だ」
それは知っている。友達などいた試しがないし、懇意にしてくれる先輩や後輩もいない。恋人など論外だ。タロウが親しい人間は、この自分しかいない。
「わかった……正直に言う。おまえの気持ちはうれしいが、照れくさくてそのことしか考えられなくなる。毎朝それだと仕事にならないんだ」
かなり本音で、かなり強めに言ってしまった。就寝前だというのに心拍数がおかしなことになっている。
「そうか……それは確かに問題だな」
腕組みをして考え込んだタロウは、ふと顔を上げて陣と目を合わせた。
「じゃあ、夜にしよう」
「……はあ?」
予想もしなかった言葉に、思考がついていかない。
「陣がうれしいというなら俺もつづけたい。朝は困るというなら夜にすればいい。それに夜のほうが、時間を気にせず余裕を持って労ってやれる。そうだな……歯もみがくし、寝る直前にしようか。ちょうど今だ」
「いや、そういう話じゃ……」
またなにか失敗したらしい。しかもかなり挽回が難しい失敗だ。
「陣」
ぐいっと身を乗り出してきたタロウに、肩を掴まれた。
「タロ……」
「今週もおつかれ。週末はゆっくり休んでくれ」
言っていることは普通の家族と変わらない。
ヒゲでざらついた顔に、長い指が添えられる。ここで強く拒絶すればいいのに、今朝の感覚と感情が理性を阻む。
顔が近づいてくるのに耐えられず、つい目をつぶる。
タロウの呼吸が聞こえ、そして唇が触れ合った。
互いの吐息が混じる。もうすでに家族の親愛という雰囲気ではない。少なくとも陣のほうは、これが小学生のころの「アイジョウひょうげん」とは完全に別の接触だと知っている。
タロウが唇を押し開け、まさかと思った瞬間に舌がすべり込んできた。
「!!」
どこで覚えてきた、と思いかけたが彼はそういう存在だ。教わるわけでもなく知っている。愛し合う行為は基礎知識なのか。とすると……。
動揺のあまり布団についた腕から力が抜け、後ろに倒れ込んでしまう。しかしタロウはやめなかった。
「ん……っ」
喉の奥から甘い呻きが洩れて自分でぎょっとした。
強引にではなく、誘うようにタロウは陣の舌を絡め取る。陣が自分から求めてくるまで。息が浅くなると下唇を残したままわずかに離れ、そしてまた食らいついて侵入してくる。
幾度かくり返され、思わず相手の腕にしがみついていた。それに対してタロウは陣の体に腕を回し、体重を預けていた。
二人の呼吸と呻きと、唾液が混ざり合う濡れた音が、静かな部屋に響く。
首を反らせて深呼吸しようとすると、タロウはようやく陣の頭を開放した。唇を舐めながらこちらを見下ろす顔は、毎朝見る表情と同じだったが、上気して息を切らせているだけで艶めいて見える。
「……っ」
陣の濡れた口元を、タロウは指で丁寧に拭いながらうれしそうに微笑んだ。
「陣のそんな顔を見たのは初めてだ」
どれほどみっともない表情になっているのか、考えたくなくて手で顔を覆う。しかしその手もあっさり引き剥がされてしまった。力では絶対に敵わない。
「気持ちよくなかったのか? 努力はしたつもりだが」
よくなかったと言ってしまえば、どれだけ楽になるだろう。いや、言うべきだ。彼のためを思うなら。世間的には親子であり、男同士であり、成人と未成年で……。
「……タロウは、気持ちよかったか?」
「ああ。キスは二人が悦くなければ意味がない。陣はどうだった?」
うれしいときにはうれしいと言い、美味しいものには美味しいと言う。そのタロウが、悦かったと言うのだ。
まだ整わない息に喘ぎながら、タロウの顔に手を伸ばした。
「ヒゲ、当たって痛いだろ」
「陣としている実感があっていい」
真上にある頭を、優しく撫でた。自分自身の世間体や羞恥心など、大したものではない。重要なのは、この子が満たされることだ。陣がタロウの「愛情表現」を受け入れるたび、彼は満足げな、得意気な顔をしてくれる。
「……よかったよ。たしかに夜はゆっくりできていいな」
彼は見返りを求めない。ただ、人を満たすことでのみ満たされる。必要なのはいつでも、彼の正しさを認めることだった。ほとんどの人間が与えられないものだ。
「また、俺の元気がなかったらしてくれ。毎日でなくていいから」
「任せろ」
目的を果たし、次の行動も決まったタロウは、さっさと陣の上からどいて立ち上がる。
「弁当は続けていいんだな」
「もちろん頼むよ。あれなしじゃもう仕事ができない」
二人はいつもどおり笑い合った。何事もなかったかのように。
「消すぞ。……おやすみ、陣」
「おう、おやすみ」
暗くなった部屋で、布団に転がったままの陣は体ごと横を向く。
論点も目的もすり替わり、もう元に戻すことはできない。頬に触れるだけの可愛らしいキスは失われ、濃厚で淫靡な口づけに変わった。
それだけではない。
陣がずいぶん昔にどこかへ置いてきたはずの「欲」を、彼はむりやり引きずり出してしまった。
もともと他人に関心が薄かったのもあるが、だれとの縁もなくこのまま独身で生きて死ぬだけだと思っていた。タロウを拾ってからは生きる意味が完全に変わってしまったものの、「妻」や「母親」を用意しようという発想はなかった。
「どうして俺なんだ……」
赤子を拾い上げた瞬間から今日まで、一度も思ったことはなかったのに。
あの子から愛されたいなどと。

相手はこの世の理を知り尽くした、限りなく神に近い青年。
こちらは計算上還暦も近い、平凡より少し劣る中年男。
二人は親子ではない。
父でもなく、子でもない。
正しさを絶対とするタロウは、親子がそんな接触をしない、してはいけないということは理解しているはずだ。
禁忌でないのなら、あるいはその「先」までも可能となる。彼が望めば。
なにを求められても自分には拒めないと、はっきり自覚した。彼を傷つけたくない、彼を傷つける人間の一人になりたくないという保身のために。

これほどまでに無力で利己的な自分が、彼にとって何者であるのか。
未だに答えは出ていない。


おにぎり弁当って言っても、ウインナーとか卵焼きとか隅っこに入ってるんでしょって思ってたけど、デートにおにぎり30個「だけ」持ってきたタロウを見て、たぶんガチでおにぎり一本勝負だったな…って思いました。
なんなら好きな具訊かれて「うーん鮭かな」とか答えちゃったら毎日ずっと鮭おにぎりだった可能性もある…せめてたくあんくらいは添えてあげてタロウ…