るろうに剣心のこと

狼と人斬り

斬られた腕を手拭いで縛り、血を止める。
怪我自体は大したことはないが、気持ちのほうがまだ戦いから戻ってこない。
身体の中を黒い血が駆けめぐっているような、不快な感覚だ。一刻も早く断ち切ってしまわなければならないが、今夜はどういうわけか容易に振り切ることができない。
「そんなナリで帰る気か?」
声をかけられふり向くと、忌々しい制服が目に入った。こちらを見ているのは、さらに忌々しい顏。
「そんなツラで、と言ったほうがいいか」
にこりともせず紙巻きを口へ持っていく男の目に映っているのは、どんな顔か。
「来い。傷の手当てくらいはしていけ」
「……………」
剣心は切れた口の端を指先で拭うと、無言で斎藤に従った。

用意された薬と包帯で自ら手当てをする剣心を、斎藤は煙をくゆらせながら窓辺に寄りかかり眺めていた。無論、はなから彼の手伝いなど期待はしていない。
さびれた雰囲気の宿屋は、密偵との連絡などによく使うのだという。夜だというのに客が増える気配もない。店の者もはじめに盆を持ってきたのみで、それきり階段を上ってくる様子はなかった。
ひととおりの裂傷や打ち身を手当てし終わり、剣心は余った包帯や薬壷を置かれていた盆へ戻す。大きく息をついたが、まだ口を開く気にはなれない。
戦いの空気を吸ったどす黒い心は、払う機会を逃したままだ。
剣心はもうひとつの盆に手を伸ばした。徳利と猪口が乗っている。酒は痛み止めにはちょうどいい。
一息にあおったが、思わぬ強さに咽せる。
喉の奥で笑うのが聞こえて、顔を上げ相手を睨みつけた。
「あの娘には見せられん眼だな、抜刀斎」
斎藤は満足げに笑みを浮かべていた。
「その名で……呼ぶな」
やっと出てきた声は、己でも呆れるほどにしゃがれている。薫のことを持ち出され苛ついたのは事実だが、その名で呼ばれるのをあえて遮ったことは今までなかった。なぜ、今に限って……
短くなった煙草をもみ消して、剣心へずり寄った斎藤は目を細める。
「今の貴様なら、戦えるか?」
「……………」
断る、という言葉が出てこない。
二人は相手の目に映る自分が見えるほどの距離で睨み合った。
幸いというべきか、お互いに刀は手の届くところにない。それでも身を翻して刀をつかむことはたやすく、戦わない口実にならないこともよくわかっている。
攻撃しようとしたのかは本人たちにも定かではないが、二人は同時に動いた。片手で相手の襟首をつかみ、首を押さえ込む。剣心は白いシャツの立て襟を。斎藤は片肌脱いだ朱の着物の襟を。
「それともかりそめの家へ帰るか、抜刀斎?」
呼ぶなと言ったはずの名を呼ばれる。たったそれだけのことで頭に血が上り、剣心は目の前の口をふさいだ。口を使ったのは、こちらも余計なことを言わずに済むと思ったから、ただそれだけ。
これは接吻などではない。ただ口を封じただけだ。それは斎藤も同じだったようで、長い腕が強引に剣心の襟をひっぱって引き剥がした。
だが襟首ならこちらも捉えている。剣心は斎藤の頭を抱え込むようにして全体重で乗りかかった。畳へ倒れた長身が起き上がる前に、肩を掴んで再び口を覆う。斎藤は当然の反撃として蹴りをよこそうとしたが、脚を絡めて押さえつければ長い脚も袴に動きをとられて思うように動けない。
「!」
大きく開けた口に、舌が入り込んできた。剣心は触れた舌先の感触に戦き、しかし抗えずその感触を追う。
誘い込まれて伸ばした舌に、とがった歯が触れた。その刹那、首の後ろで襟を掴む手に力がこもるのを感じ、同時に危険を悟る。
「は……っ!」
舌を噛まれる寸前で顔を離す。歯がかみ合う音がした。わずかでも遅ければ、噛み切られるまではいかなくとも激痛に動けなくなるところだった。
息をつきながら見下ろすと、斎藤は濡れた唇を舐めたあとで白い歯を見せて不敵に笑う。
「フン……小娘と乳繰り合ってるうちにボケたか」
「……!」
薫との間柄を揶揄されるのはひどく腹が立った。しかしそれすらも口実だったかもしれない。この衝動を止めないための。
剣心は空いた手でシャツの胸元をむりやり開く。洋装にはほとんど縁がなかったが、どちらにしろ丁寧にひとつひとつ外そうとは思わなかっただろう。釦がいくつか飛び、盛大な舌打ちが聞こえた。
ぐいと頭を押しやられ、打って変わって不機嫌そうな顔がこちらを見据える。
「調子に乗るなよ……」
横から肘打ちをかまされ、よけきれなかった剣心はわずかによろめいた。その隙を斎藤が逃すはずもなく、小柄な身体は突き飛ばされ、瞬きをするほどのあいだに畳に押さえつけられていた。
「斎藤……」
思わず呻いたが、圧倒的不利は理解していた。のしかかる長身はちょっとやそっとの当て身ではびくともしないだろう。大きな手は剣心の細い両手首をまとめて掴み、完全に動きを封じている。
「その気はなかったが、昔のよしみだ。つき合ってやるよ」
鼻先に突きつけられた顏は、わずかな笑みも含んでいなかった。
「……っ!!」
空いた片手が、剣心の帯を探っている。身体が恐怖に強ばった。
この男とは何度も刀を交えてきた。だが肌を合わせたことはない。どうなるか、剣心自身にもわからない。おそらくは相手もそうだろう。
ベルトの金具を外す音に、はっと気づいた。刀こそ持っていないが、これはまぎれもなく闘いだ。あきらめれば負ける。戦意を失わなければ負けではない。
剣心は己が何を欲しているのかようやく自覚する。だれかの血でも、不味い酒でもない。それこそ、あの道場には持ち帰れないものだった。

女と称しても通じる、若いというよりはむしろ幼い顔立ちの男を、畳に押しつける。
弱者を嬲るのは趣味ではないが、相手はこの狼の向こうを張る獣……人斬り抜刀斎だ。
ここへ連れてきたのに深い理由や目的があったわけではない。こうなったのもただの成りゆきだが、この交わりが眠れる人斬りを目覚めさせるなら如何様にでもいたぶってやろう。そう決断するのに些かの猶予も必要なかった。
腕に胸にと巻かれた包帯が目立つ痩身は、痛々しいほどに華奢で頼りない。やわな肌に指をすべらせ歯を立てれば、生娘のように息を飲んで身を震わせる。これがあの人斬り抜刀斎かと思うほどに、目の前の男は脆弱に見えた。
女を抱くも男を抱くもさして違いはない。斎藤にとっては飯を食らう程度の生理的な行いであり、殊更に意味を持たせたことはない。それでも、怯えた様子で短く浅い呼吸をくり返す剣心の姿に、欲を覚えなかったと言えば嘘になるだろう。
斎藤は無用な情動と手間を切り捨て、下帯の隙間から自身の雄を押し込もうとした。だが慣れていない後ろは容易に異物を受け入れるわけもなく、むりに入り込めばこちらも痛い目を見そうだった。
小さくため息をつき、傍らに置かれたままになっていた治療用の軟膏に手を伸ばす。
その瞬間、剣心が動いた。
わずかに崩れた重心の隙をついて斎藤の手を払いのけ長身の下から逃れた剣心は、身を翻す勢いを利用して斎藤の腰からベルトを引き抜く。
やられた、と思ったときには、剣心は持ち前の俊敏さと器用さで斎藤の腕を後ろ手に縛り上げ、俯せにして押さえつけていた。一気に攻守逆転となる。
手の届かなかった軟膏と、その横にある包帯を横目に見ながら、的確な反撃に舌を打つ。いかな斎藤でも革のベルトを引きちぎるわけにはいかない。抜きやすい手首ではなく肘に近い場所で括っているのも計算のうちだろう。そして仰向けよりも俯せのほうが反撃しづらい。
再び逆転させる手もなくはないが、今の今まで女同然だった男がこれからどうするつもりなのか、単純に興味がわいた。
「俺を抱くか」
肩越しに見上げると、人斬りそのものの眼がこちらを見下ろしていた。
「それも悪くないな」
ぼそりと呟いた剣心は、何を思ったか斎藤の肩を掴み仰向けに転がす。身体の下敷きになった腕が痛むが些細なことだ。今なら相手の腹に蹴りを食らわせるのはたやすいが、息を荒くしてこちらを睨む表情が気になってつい出方を待った。
長い髪が斎藤の肌をくすぐる。首筋に歯を当てられ、斎藤はわずかに身震いした。それこそ肉を食いちぎりはしないだろうが、先ほど舌に噛みつこうとした自分と同じだ。
剣心は斎藤の首にじゃれるようにかじりつき、同時に腰を押しつけてくる。どちらも下帯がずれていたから、熱を持った中心が直接ぶつかり合った。
「ぁ……っ」
かすかに洩れた喘ぎが、斎藤の首筋を熱く湿らせる。首を絞められているような息苦しさを覚え、斎藤の呼吸も確実に乱れていく。
剣心の細い指が猛った熱に絡みついてくる。もう一方の手はシャツの下の肌をまさぐっていて、くすぐったいと同時にどこか恐ろしい。心臓の上を探られているからか。
攻撃を受けているというほどではないが、組み敷かれている事実は変わらない。斎藤は背中の下で腕をねじりながら反撃の手段を考えた。
ひざの上まで下ろされているズボンが、脚の動きを制約している。剣心の袴も同様だが、着物のゆとりを利用しようとすれば、こちらまで巻き込まれるだろう。
剣心は諸肌をはだけながらも袖からは腕を抜いていない。斎藤のシャツも釦は二つ程度しか留まっていないが、腕を縛られているせいでそれ以上脱ぐことができない。互いに脱げかけた衣服が身体にまとわりつき、望む動きはできない状態だった。
「は……ぁっ」
腰に熱が集まって思考が散りそうになる。常にはないことだ。
女を抱くときでさえ頭のどこかは醒めていた。男に抱かれることはそうそうなかったが、より冷静に相手を眺めていられる。だが今は、剣心に意識をさらわれないよう必死に抵抗しなければならなかった。こんな子供だましの、行為にもならない行為だというのに。
「く……」
袖の上から食い込むベルトをずらそうと、無理を承知で腕をよじりつづけた。新調したばかりで革が固いのは幸いだった。やわらかくなじむ革より、結び目がほどけやすい。
「ぅうん……っ」
剣心の手が、斎藤の鼓動の上に爪を立てる。
終わりが近づいているのはわかっていた。自分にも相手にも。
「うぁ……!!」
二人がほぼ同時に白濁を迸らせるのが合図だったかのように、斎藤の戒めが解ける。
剣心が余韻に震えるより先に、斎藤は二人ぶんの重みから腕を引き抜き、自分の上にある身体をしっかりと抱え込んだ。
「!!」
剣心は驚いて顔を上げる。両腕で縛りつけられては、力で劣る剣心に逃げ場はない。わかっているのかいないのか、熱に潤んだ眼が斎藤をまっすぐに見つめる。その眼はまだ闘えると挑発していた。
どういう反撃をするつもりだったのか、斎藤自身にもわかってはいなかった。ただ、一瞬睨み合った二人は、互いの首をかき抱いて唇を重ねた。
絡み合う舌を互いの歯が何度もかすめたが、今度ばかりはどちらも噛みついたりはしなかった。

手早く着物を引き寄せて、剣心は斎藤から距離をとりながら身支度を整える。
斎藤のほうは服を直そうにもシャツの前を閉めることができない。あきらめて乱れた髪を後ろへと撫でつける。
「……かたじけない」
剣心が包帯の乗った盆をこちらへ押しやって頭を下げたが、礼など特段ほしくもない。制服の上着だけを肩に羽織り、煙草に火をつけた。
「何度もつき合わんぞ。俺が望むのは斬り合いだ」
相手にも己にも言い聞かせるつもりで呟くと、刀を拾い上げる肩がひくりと震える。
「ああ……これきりだ。俺はもう……」
それ以上は別れの言葉もなく、足音も立てずに彼は立ち去った。
窓の外に向かって、斎藤は煙を吐き出す。
おそらく気づいてはいまい。ここにいるあいだ、彼は「俺」としか言わなかった。斎藤に向けられた眼は、かつての彼そのもの。なにより今宵の「闘い」が、あの男の捨てきれない本性を教えてくれた。
「いいや、貴様はまだ抜刀斎だよ……そうだろ、なあ?」
紙巻きをくわえながら、斎藤は窓の下を見下ろす。
朝も遠い闇の中を、通りに出た小柄な侍が足早に歩いていった。

(by NICKEL, Aug, 2012)


映画の後日談で、なんかの事件に巻き込まれて戦った剣心と、後始末に出てきた斎藤さんっていうシチュ。